
心の修行
事件や事故の報道は、毎日のように続きます。責任者や担当者が謝罪し、マスコミからの批判・非難を浴びています。充分調べなかった監査法人、強度をごまかした設計士、保険金を払わなかった保険会社、インサイダー取引をしてしまったファンド。被害を受けた人々のことを考えれば責めるのが当然ですが、私には、責められない後ろめたさがあります。自分が、その立場だったら、彼らと違う道を採っただろうか。そう考えると、はなはだ自信が持てません。私は、以前と比べれば、かなり成長したと思っています。しかし、当事者として、私がそこにいたら、同じことをしてしまいそうなんです。成果を挙げるためなら、多少のごり押しはしかねない所がまだ残っています。
人生は、闇夜の中を手探りで歩くようなものです。一寸先に何が起こるか、誰もわかりません。不測の事態が起こったとき、今までのごまかし、いい加減さが、一気に噴き出てしまうかもしれません。非難されている人達も予想しなかったことでしょう。社会的事件に至らなくても、セクハラ、ごまかし、へつらい等、品格を落とすような行為をしてしまう事は、数多いと思います。運が悪かった、魔が潜んでいたという前に、まず自分の心を考えるべきではないでしょうか。自分の心など良くわかっていると思いがちですが、そうでしょうか。人の心ほど、ふわふわして捉えどころの無いものはありません。何かに集中しようとしても、すぐ他のことに気をとられます。動くべきなのに、静観しようとします。二度と犯すまいと決めた過ちを何度も繰り返します。実に曖昧模糊とした、怠け者で、分からず屋の、この心を鍛えない限り、彼らと同じことが起きる可能性は否定できないのです。
そして、もう一つ問題は、あの世に帰る時です。肉体が死を迎え、心だけになってあの世に向かいます。隠すものがなくなっても大丈夫でしょうか。心の動きが読まれてしまっても、差し支えないでしょうか。そして、神様と対峙するとき、恥ずかしくはないでしょうか。私たちは、つい今だけ過ぎればと考えがちです。心のことなど、困ってから考えればよいと思ってしまいます。しかし、先の見えないこの世の中、そして、死後の事を思うとき、何とかしなくて良いのでしょうか。私は、信仰のおかげで、卑しい心、貪ろうとする心はなくなってきました。しかし、ついごまかそうとします。そこをなおしたい。そして、できたら、慈悲の心を持ってあの世に帰れたらと思っています。